昭和46年09月01日 朝の御理解



 御理解 第61節
 「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神がおしえたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」

 どんなに素晴らしい御教えでありましても、頂く方の側の心が生き生きとしておらなければ、またはそれを伝えるほどの信心が燃えておらなければ、おかげになりません、成る程、金光教の信心である限り、教祖金光大神が教えて下さっとること、いわゆる尽きぬおかげを話しておく、尽きぬおかげを話にして残して下さってあっても、内容がそういうものを持っておっても。
 頂く方の側が、それをおかげにしえなかったら、またそれを伝える人の心の中に、生きた働きがなかったら言うなら、例えば確かに教祖様は、本当の事真実人間が、真実幸せになる為の道を教えて下さってある。場合には真理であり、場合にはそれが天地の法則である。みやすう頂けば、みやすいどげんでも頂ける、難しう頂こうと思えばどこまでも限りなく難しさというか、深さというか広さというかことが言えると思う。
 ですから、それを、例えば、学問的に究明していきましたら、素晴らしい、深い広いものになっていきましょうが、それが、ただ、学問という事だけに終わったり、いわゆる神学者と言った人がありますね、神様の道を学問の上で体得しようという、いわゆる学者です。それを教学するけれどもです、けれどもそういう素晴らしい事が判っておっても、なら、その人自身が、生き生きとしたおかげを受けていない、例えばそれを表し得る事ができない人が説いても、もうこれは枯れたのも同じです。
 例えば神の存在をどの様に理屈で説きましても、その生きた神様を自分自身が頂かず、生きた働きを表すことが出来ない人が、いかに議論討論しましたところで、もうそれは、ただ、馬鹿らしいということにつきるのです。或る仏教の偉い坊さんがいうとられます、学者がでると、その宗教を破壊してしまうと、その宗教からねその偉い学者、例えばお坊さんがでると、宗教を破壊する、堕落僧がでた場合は宗教をこわす事はない、いわゆる破壊僧とでもいいましょうかね。
 堕落僧いわゆる、その信心を堕落してしまう、いわゆる生臭坊主です、生臭坊主がでた場合はです、宗教を壊す事にはならないけれども、学者がでるとその宗教を破壊するといっています。私はそれを聞いて、これは仏教だけのことじゃないな、と思いますね、金光教でもそれが言えると思うです。それは勿論、学者が生き生きとして、金光大神を頂き、天地金乃神様のお働きを生き生きとして表すことの出来るほどしの信心があれば、それはもう鬼に金棒です。
 けれども、どんなに神様をくわしく、金光大神が尽きぬおかげを話にして残して置くとおっしゃる、その話が尽きぬおかげにつながってないならばです、それはもう教祖の教えられた、尽きぬおかげを話にして残すと言われるそれを破壊しておるのも同じだと思う。 そこで私は今日、この六十一節から感じさせて頂く事は、最近ここで信心倍増と言う事が言われておる、それは一つの運動とまでなっておると言う事は、非常に有り難い尊い事だと思います。
 信心倍増ですから、それにはね、おかげが倍増して来ねばなりません。それでおかげが倍増して来ないならば、自分は、信心倍増になってない事を知らなければいけません。そこんところに極めてまいりますと、いわゆる信心倍増とは、信心倍増とはと言う事をもっともっと深く広く、真剣にこれに取り組まねばいけん、と言う事が分ります。先日甘木の平田さんがお導きして参られました四国の、天満教会の親先生、それに総代さん方一緒について来ておりましたが。
 その総代さんがこう言う事を言っとりました、もう数年前ですけど、四国に或る偉いお道の先生がお話に見えた、所が教会がひとつも発展しない信者が増えない、御導きをしたと言えばここにもありますように、これを丁寧に人に伝えて行くのが神えのお礼、真の信心をさせるのが神様えのお礼、それが神になるのぞ、とまで教えておられる。ですからわが心が神に向かうのを信心と仰るのですから、本気で御導きでもさせて頂いて、真の信心を頂いてもらう人が、自分の周囲に出来てこなければならない。
 それが、出来んのはどういう訳でしょうかと言うて質問をした。ところがその先生が、いと簡単な事ですよと言うて話された事はね、「問題は自分自身が信心に燃えたらよいのですよ」と言うことであった。自分自身の信心が燃えておったら、絶対周囲にそれが、燃え移って行かん筈はありません、技巧ではない話が上手ちゅう事ではない、問題は自分自身が、信仰に燃えとらねばならない、燃えておるならば必ず、それは自分の周辺に燃え移って行くであろうと、成程そうだなと思いましたと言う事を話した。
 生き生きとして、信心の火の手が上がって行くと言うような、信心を頂かせてもらはなければならん、ですから信心倍増、信心倍増と言うても燃えておらずして、信心倍増は出来る筈ありません、燃えておるときにはもう、苦労を苦労と思いません、難儀を難儀と感じません、暑い寒いも感じません、そこから不思議な力が湧いて参ります。そこで、私は思いますのに、例えばお道の信心は、お礼お詫び願い、お道の信心の内容はそれでなからなければ、と言われております。
 お礼お詫び又は願い、私どもが祈らせて貰うその内容は、この三つからなったものでなければ、本当のものにならん。信心が分らせて頂けば頂くほど、広大無辺のおかげのなかにおる事がです、もう只、只有難うして、勿体のうしてという、そのお礼を申し上げても申し上げても、お礼が申し上げ足りない、それが形に表されて来る燃えて来る、それが人に話を伝えなければ居られない事になり、お礼の心ですから、私は信心倍増とは、いままで自分がお礼を申し上げて居った。
 そのこれは数字的なものじゃありませんけど、今まで五つのお礼を申して居ったならば、十のお礼が出来なければ、信心倍増にはならないですね。お詫びでもそうです、お詫びのしるしに信心をさして貰う、お詫びのしるしに御用でもさして貰う、お詫びのしるしに、お参りをする。信心がわかればわかるほど、教えを頂けば頂くほど、自分自身のいわば、相済まぬ私ということ、屑の子の自覚というものが、段々深くなって来る。そこから真剣な、相済みませんという低姿勢な、信心姿勢が出来て来る。
 昨日、善導寺の原さんが、朝のご祈念に、ご祈念しとられたら、おおきな短冊形の紙に、水の流れと書いてあるご心眼を頂かれた、その前の日にはご心眼にサボテンを頂かれた、サボテンね、植物のサボテン、まあサボテンというのは、砂漠ですかねもう砂ばっかりと言った様な所にも出来る。雨が一ヶ月二ヶ月降らなくても充分しこって行く、しかもそれに花を咲かせて行くのがサボテン。
 サボテンというのを御理解で頂くとサは佐、佐田さんの佐、ボというのは、久保山の保です、たもつという字、テンというのは、天地の天、合楽の信心の真髄というても良いでしょうね。信心をさして頂く、様々の難儀な所を通らせて頂く、これは先日からも申しますように、昨日でしたかね、例えば私がどのような徳の蔵から、その徳を身につけてこの世に出て来たと例えば言うても、それが、磨かれなかったり、錬われなかったら、何にもならんのです。
 どんなに親が徳を残しておって呉れても、それを受け継ぐものが、生かし得なかったら何にもならんです。そこで例えば、昨日の朝の御理解から頂くと、三回も火の行をさせたとおっしゃるような、そういう事によって錬はれに錬はれ、磨くに磨かれていくところに、それは、おかげになっていくのです。それは徳になってくるのです、そうなりますよね、金剛石も磨かずば、もう只の瓦とおなじ事だと言う事。
 その磨くと言う事がです、さまざまな難儀な問題を、本質とさせて頂いて、いよいよ自分があらたまっていく、磨いていくと言う事に一生懸命になる。もう永年信心させて頂きよるけれども、いうなら、形の上に表れて来るおかげは、どうして、あげん一生懸命信心しござるとに、あげん、貧乏さっしゃるじゃろうかと言うのは、これは、私の信心時代がそうじゃった。
 大坪さんあんたが、おかげ頂かん筈はなかよ、と言われる位な信心が出来ておった。熱烈であった、もう燃えておつた、それでも、おかげはいうならいつも貧乏であったという事、言うなら、お恵のおかげは、一つも頂いてなかったけれども、お恵のお水、お水は頂いてなかったけれども、雨は一つも降らなかったけれども、枯れるどころか、ますます根を張って行った。
 そして真赤な花を咲かせて行くようなおかげを頂いて居った。いつだったか、土居の久富勇さんの奥さんが頂かれたと思うんです。あなたがたの信心は、貝、さざえとか、蛤とか、貝類のお知らせを頂いた事があります、それに貝でいうならば久富さん、あなたがたのは、タニシのようなもの、田の中に居るでしょう、タニシという貝が、あれは一年間放ぅっておいても死なんとです、土の中にちゃんと生かっとる。
 取って来て、とうまい袋の中に入れて、床の下にどもいれとくならですね、一年でもあれは死なん、という程に息が長い、だからそういう信心をさして頂いとるうちに、力を受ける成る程、私共がこれだけ信心されるのに、どうし、おかげを受けんだろうと思うけど、さあ、心のうえには、喜びがたぎっとる、信心ちゃ不思議の事ですよね、それは真の信心をさして頂いておるならば、難儀が続けば続く程力が出る。
 いや力が出来るのじゃない、力が湧いて来るのである、信心ちゃいよいよ自分が判って来れば、来る程にこれ位の事に、おかげの頂ける筈はないというお詫びの姿勢、それこそ原さんが頂かれた様に、一昨日サボテンを頂かれ、昨日は水の流れとこう頂かれた。高い所から低い所に水が流れる、どういう障害物があってもそれを乗り越えて、又は横から流れて水は流れる、いわゆるこの水の姿こそ本当の信心の姿勢でなくてはならぬ。下の方へ下の方へと流れていく、下の方へ下の方へと頭が下がっていく。
 水の流れのような信心、そういう、私は心の状態の中からです、いわゆる教祖様は、本当の事を教えて下さる、その本当な事に血が通う息吹を感ずる、触れば温かみを感じる、つつけば、血が飛び出るような、内容の信心というものが、私はこの六十一節では、求められておると思う、そうでなからなければね、人に伝えて行く事は出来んのです。しかも、それが神様えのお礼、しかもそれが神になるのぞ、とまで教えておられます。心からのお礼が倍増される、お詫びが愈々深うなる。
 そこからそれでも願わにゃおられんのが、私共痛ければ痛い、痒ければ痒い、もうすべての事が願わなければおられんのである。そういう生き方にならして頂くときです、とてもとても、神より上になる事の出来よう筈がない、けれども、頭で判っていく信心であるならばです、その宗教を破壊すると、まるで極言しとられる仏教のお坊さんではないですけれども、もう神よりも頭の上で、神を使う事になったり、神より上になったりするような結果になる。
 だからおかげが破壊するのである、その宗教がどのように、素晴らしい内容を持っておっても、いわゆる理論の宗教であったなら、もうそれは破壊されとる宗教です、生きたものが伴わないのです。今日は私は六十一節から、その様な事を考えました。お道の信心の祈りの内容というのは、まず、御礼、何ば御礼申し上げてよいやら判らんようなこっちゃ出来ん、思うて見れば思うて見るほど。
 あれもおかげ、これもおかげと、深く深くわかる、そこにお礼心が湧いてくる。信心が判れば判るほど、自分の相済まなさが判ってくる。そういう在り方になるときに、神より上になるとは思うな、とおっしやる、そのような事が有りよう筈がない、おかげになつて来る、それを、なまじっか学問で、神様を判ろうとしたり、理屈の上で神様を判ろうとしたりすると、結果がそういう結果しか生れてこない。
 おかげを破壊するだけでなくて、宗教までも、金光様の信心とはというて、いくら雄弁に得意の信心を説き明かした所で、自分自身がおかげから離れておるとするならば。もうそれはね、聞くだけの価値のない話である。何というても、御礼にもお詫びにも、又、願いにも、生き生きとした、血の通うものでなければならん、それが矢張り今までもそうであったけれども、それが倍増する。
 御礼を申し上げることが倍、それはもっともっとおかげを受けて居ると言う事を、もっと深く広く判らして貰わねばならん、詫びにおいて然り、願いにおいて然りである。信心倍増とは、先ず私はそう言う所の内容をいうものがです、倍の働きというか、その、今まで感じ得なかった様な所が、有り難いと感じさせて頂けれる信心を頂いてはじめて、信心倍増と言う事が、いえるのじゃないでしょうかね。
   どうぞ。